2017-01-28

喪失と隔たり

hedatari

ここ数日、とある編集者の方と「喪失と隔たり」について、いくつか言葉を交わす縁があり、改めて思いを巡らせています。

そもそもは、さまざまな人やものの間にある「境界(線)」と「越境」についての話があって。私にとって「境界」というものは、今までの人生の色んな節目に感じてきたということ。そしてそれを目の前にした時には「越えない」ということや「間の取り方」に注意することが多いというところからはじまり、病を患うことがきっかけで生じる「喪失と隔たり」の話へ。

誰しもが避けることができない喪失と隔たり、つまりは孤独というものと向き合うことになった時、時間や他者の力も借りながら何とか「越えよう」としたり「ないものにしよう」と試みることも一つの方法。ところが黙々と「自分で綴じる」という行為をつづけている私はそれとは少し違っていて、綴じることをとおして「ただ生きることそのもの」にしようとしているように見えるというようなニュアンスの言葉をくださったのでした。

 

今までの人生を振り返ると、仮に隔たりの両側をあえて「こちら側」と「むこう側」という言葉であらわした時、がんになるまでは「むこう側」の人間として隔たりを知覚するシチュエーションが多くて、その隔たりの輪郭の外側を探りながら、不用意に踏み込んで傷つけることがないように、でもどうしたらよいのかとかなしんだり悩んだりしていました。

でも自分自身ががんを患ったことをきっかけにさまざまなものを同時に失って、初めて隔たりの反対側、つまりは「こちら側」の孤独というものを実感して、あらゆるものががらりと変わったように思います。

それまでの人生で何かの問題に直面した時のように真正面から挑んでも、一向に越えることができない隔たり。支えてくれる人に頼っても離れると不安が戻り、忘れようとしても忘れられず、自分が失ったものが「在る」景色が視界に入るととたんに引きずり戻され、うらやましさがぶり返す。時間の経過や他者の力を借りるだけでは解決できないことに気づいた時に、外へ外へと向いていたものを一度手放して、改めて内側に目を向けて言葉にするという行為をはじめてやっととこさ地に足がついて、自分の足で踏みしめるという感覚が戻ってきたというところでした。

なのでその編集者さんの“綴じることをとおして「ただ生きることそのもの」にしようとしている”という言葉は、流され続けてたまたま辿り着き、自分でもよく分からぬままだった現在地をすっと示してくださったような一言で、気付きと力をもらい、また偶然が重なってこうして言葉を交わす縁をいただいていることを有り難く感じました。

 

隔たりの内側で抱え込んでいるどうしようもなさやままならなさを、言葉というかたちで外に出して本に綴じ、見つめなおす。隔たりの間に本を置くことで、他者からのまなざしを受けて言葉を交わす。そのまなざす過程と、できた本から生まれるものが何なのか、もう一度見つめして、言葉にできたらなと思います。

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michi-siruve (みちしるべ)

ZINE作家。“記憶”を小さな本に綴じています。「掌の記憶」豆本詩集『汀の虹』など。>>詳しくはこちら

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2017  zine it! vol.8 (11/23) 三条富小路書店(12/5-17)
2018 『汀の虹』展示 @blackbird books (1/16-28)

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