2016-12-26

言葉を編むこと、写真におさめること

「言葉を編む」ことについて問いかけをいただく機会がちらほらあって、ここ1ヶ月ほど改めてぼんやりと考えていました。

言葉については特に、ただ何となくその本の抱く空気感や佇まいに馴染む感触の言葉をのせるというところがあって。「言葉を編む」つまりは文章自体のこだわりというものが、案外思い浮かばず。

ひとつあるとしたら「余白のある表現」。本を手にとってくださった読み手の方の人生も重ねられるだけの余白をしっかりと抱ける表現というものを心がけているように思います。

もっというと、言葉を編む動機は「何かを生みだしたい」というより「今あるものをのこしたい」という気持ちで。“記憶”というふわりとしたものの輪郭を、確かなものとして描くための手段としての言葉。そしてその記憶も、誰かから預かった記憶か自分の記憶。描くための言葉なのです。

おまじないのように習慣になっているのが、言葉を辿りながらそのものがたりの一番真ん中にある感覚を何となくイメージして、ふっと頭の中に流れた一曲をひたすら聴きつづけて綴ること。取材をとおして誰かの記憶を預かるときも、自分の記憶を辿るときもです。

世の中には言葉にならない、言葉にできないことの方が圧倒的に多くて。だからこそ活字というか、文章からはこぼれ落ちてしまうものが宿った言葉、それが数分という密度にぎゅっとつまった音楽というものを聴きながら言葉を編むことで、何か一緒に本に綴じこめたいというおまじないのようなものなのです。文章の温度やリズムはきっと音からもらっているのかもしれません。

一方「写真におさめること」は、言葉を編むだけでは綴じきれない瞬間をおさめるため。目の前を通りすぎてゆく瞬間を逃さないように、ただひたすらにおさめることをつづけています。

いつも手持ちのスナップで1発撮り。相棒のFUJIFILM  X-T1におんぶにだっこですが、流れてきた時間を感じさせるものと、現在(いま)しかない瞬間。その2つの時間を行ったり来たりしています。

hahanophoto

「撮り手のまなざしとリズムを感じる」と言葉をかけていただくことが多いのですが、それはおそらく『母のまなざし』に綴じたような“まなざし”を感じる母の家族写真を見て育ったからからなのかなと。

そして写真におさめたものの奥から掬いあげたものを編み、写真におさめられなかったものを編み。言葉では編むことができないもの(写真)を添える。恩師の先生に教わった「フォトボイス」にも通じるものがありますが、その人の言葉と写真とが織りなしてはじめて立ち上がるものがある気がしていて、それをいつも大切にしたいと思っています。

ちなみに「掌の記憶」の、写真が縦に連なった「掌」と言葉が横に連なった「記憶」という2冊の冊子で構成された形は、中島みゆきさんの『糸』という曲にインスピレーションをもらっています。写真と言葉をどう綴じようかとぐるぐるしていたときに「縦の糸は~ 横の糸は~ 織りなす布は~」という歌詞をふと思い出して、それをそのまま写真の連なり(縦糸)と言葉の連なり(横糸)で織るような本の形にしようと、目の前にあった紙を折りはじめたのがきっかけでした。

いつか「掌の記憶」として展示をするときがきたら、天井から「掌」(縦糸)を、壁一面に「記憶」(横糸)を巡らせて、本当に織りなす布を再現できたら面白いかもしれないななんてこともぼんやり想像しています。

そんなこんなで「言葉を編むこと」と「写真におさめること」どちらもつづけながら、これからも目の前にある儚いものを綴じつづけていきたいと思います。

関連記事
michi-siruve (みちしるべ)
“記憶”を綴じるZINE作家。「掌の記憶」を綴じながら、日本のまちを巡っています。>>詳しくはこちら
関連記事