花の終わり

2018年3月。また1つ季節が巡りました。

がんを告げられてから4度目の春。つまりは育むはずだった小さな生命を失って、大好きだった祖母も他界して4年。何度巡っても古傷が疼く季節です。そんな時期に身近な方から大切な家族を見送ったという報せを聴いたり、ずっと陰ながら力をもらいながら心配と応援をしていた方が旅立たれたり。色々想うことが重なり中々眠れない夜が続いていました。

そんな眠れない夜に思い立って、ずっとどうしようかと抱えていたものを1つ整理しました。ここ1年ほど、お花屋さんや八百屋さんから持ち帰ったお花たち。花器からあげた後も手元に残していたものを「掌の記憶」と同じ紙、同じ大きさの箱を作り、一輪ずつおさめました。

咲いた瞬間から枯れてゆく花。私たちよりうんと早足なその「生」に、昔からどうもついていけない気持ちがあって。毎年当たり前のように包んでもらっていた故郷の桜との別れや、震災後間もない町で手向けられていた花束から感じたこと。大人になってがんになり、お見舞いとして贈られた花束が例外なく枯れてゆく姿を見続けて感じたこと。そして花店noteさんの花に出会ううちに、一輪ずつ生花を持ち帰るようになったこと。

ちょうど1年前、そんな花に対する想いを「一輪の花」という文章に綴りました。この文章に登場したニゲラは、上の写真の一番右上にいます。それから1年。一輪ずつ、時に小さな花束で、たくさんの花たちに出会いました。

「花の終わりはそれぞれ違う」

「枯れゆく姿も生花の魅力」

これは今年の1月、blackbird booksさんで開催した展示「汀の虹」を終えた日にいただいた言葉。展示最後の2日間をご一緒した花店noteさんに初めてお願いした花束と一緒に添えられていた、小さなメッセージの中にあった言葉です。

花束にそっと添えられたその言葉とともに、一輪一輪の花たちと向き合った2月。花の種類によって、同じ種類の花でも終わりはそれぞれで。紫色のスイトピーも、真っ赤なチューリップも、みんなどんどん皺が深まり、落ち着いた紫色へと向かってゆく。「いつが終わりなのか」なんて答えのない問いに、一輪ずつ自分なりの区切りをつけて、水からあげては整えて箱におさめる。そっと掌にのせると、眺めていただけでは感じることができなかったものが指先から伝わってきました。

花についての知識がない私には、区切りをつけるための拠り所がありません。最初の頃はもう枯れ果てるまで待っていて、その花らしさが残らないほど。でも花束としてたくさんの花と向き合った時、ふとそのもう少し手前で「のこす」区切りをつけてみると、今までの花よりもその花らしさを保ったまま形をのこすことができました。最期の最期まで生きていることを信じて見届けるのも一つ。その花らしさを大切にするために区切りをつけるのも一つ。

今までの人生で見送った大切な花との記憶を重ねながら、一輪一輪を弔うように箱におさめる。最後の一輪を見届けて箱の中を見ると、また小さな花束ができていました。枯れゆく時をともにしたその花束は、出会った時よりもうんと愛おしいものでした。

「花の終わりはそれぞれ違う」

「枯れゆく姿も生花の魅力」

もう一度その言葉を胸に抱き、翌月も花束を頼んで持ち帰り、もう一巡花とともに過ごす。同じように花それぞれの終わりを見届け、自分なりに区切りをつけて箱へとおさめる。私にとって「箱におさめる」という行為は「大切なものをいつでも触れなおすことのできる形にのこす」ための行為。目の前から消えてゆく大切なものを、自分なりに弔う術なのかもしれません。それは“大切な記憶”を小さな箱入りの豆本に綴じて贈る「掌の記憶」を綴じはじめた時から感じていたことで、花をおさめるようになってぐっと確信に近いものになりました。

弔う術さえみつければ、生との別れも怖くない。必ず訪れる花の終わりも、終わりがそれぞれ違うことも、受けとめながら今日を生きる。花たちから、そんな当たり前で尊い生を感じながら生きる力をもらっています。大切におさめた花の記憶に触れなおしながら、最期まで見届けながら、今日を大切に生きていきたいと思います。

 

 

 

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