2019-06-30

【Report】「そのあと」を生きる @関西学院大学

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少し時間が経ってしまいましたが、2019年6月11日、関西学院大学 人間福祉学部 人間科学科 藤井美和先生のゼミのゲストスピーカーとしてお話しする機会をいただきました。

「そのあと」を生きるという題で、大学で社会福祉を学び、今のZINEの活動に至るまでさまざまな「そのあと」を体験したひとりとして、感じてきたことを学生のみなさんにおはなしする時間でした。

今回おはなしするにあたって、また聴いてくださった学生のみなさんや藤井美和先生からメッセージをいただく中で、学生時代から今日までを改めて振り返ることがたくさんありました。

仕事柄、自分の経験について「振り返ってはなす」「振り返って綴る」という機会は多いのですが。どんなご依頼で誰の前ではなすのか、本当に毎回少しずつ違っていて。夜空に浮かぶ星屑のように散らばった膨大な経験、記憶、足あとからことばを編むことは、都度あたらしい星座を描くような作業に感じています。

でも、つないでしまうとどうしてもきれいな軌跡のように伝わってしまうことも感じていて。本当はきれいにつないだ星座の間にも、こぼれてしまった寄り道回り道が無数にある。「すべての経験がつながって今があるのですね」というメッセージをいただくと、きれいにまとめすぎてしまったかなと反省することも少なくありません。

今回はかなり深いおはなしをしたこともあり、普段こぼしてしまっている星屑も掬い上げることができました。その記憶として、スライドよりもう少しだけたくさんの星屑をつないだ文章をひとつ置きたいと思います。

関西学院大学 人間福祉学部は、母校であり卒業した学部です。在学当時は社会学部 社会福祉学科。大学の中でもこじんまりとした学科で、卒業後にひとつの学部へと生まれ変わりました。名前は変わっても、今も人間福祉学部にはお世話になった先生方がたくさんいらっしゃいます。今回お声がけくださった藤井美和先生も、大学3年生の時に受講した「死生学」の先生でした。

「死生学」つまりは死ぬことも含めて、生きることを考える学問。21歳の春、他のどの授業よりも思い入れをもって受講を決め、向き合った授業だったように思います。

その時の教科書が、藤井美和先生と双子の妹さんである藤井理恵先生の『たましいのケア』病む人のかたわらにでした。28歳という若さで大きな病を経験し、その後は生きることを考える学問をとおしていのちを見つめる藤井美和先生と、淀川キリスト教病院というホスピスのある病院のチャプレン(病院内牧師)として、いのちと向き合う妹の藤井理恵先生による共著書。

当時のわたしは、寝たきりになり少しずつ死へと近づいていた祖父と同居しながら、病院と家を行き来する日々。祖父という病む人のかたわらで、病院や家のベッドの横に座ることが多かったわたしにとって、本に綴られていた一瞬一瞬は、まさに目の前にある現実でした。

専門職として病院に居る理恵先生が見つめ、触れてこられた声。いのちにかかわる病気を経験された美和先生が見つめ、触れてこられた声。そしてお二人それぞれの声。

目の前にある生と死の汀を見つめながら、かなしみと後悔と怒りがごちゃまぜの状態だったわたしは、心の奥にある切実な感情を揺さぶられるような想いでした。その反面、祖父はまだ生きていて。本に登場する声の主が感じている本当のところに、自分は到底届かないような気持ちも抱いていました。

でも、この本はずっと持っておかねばいけないような気がして。引っ越しを重ねても、どれだけ新しい本を買っても、ずっと本棚にありました。今も卒業後に出版された増補改訂版を手元に置いていて。何か大切なことを見つめなおしたいと思った時、必ず手にとる1冊になっています。

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スライド「そのあと」を生きる より

もう少し記憶を辿って。そもそも、わたしが関西学院大学に進学したのは、祖父の背中を追ってのことでした。大学時代に哲学を学び、新聞社に勤め、阪神・淡路大震災を経験。引退後の晩年は、自宅からほど近い関西学院大学で哲学や宗教学、そして人間学などの講義を聴講しながら「尊厳ある生」について考え続けていた祖父。

その道半ばで脳出血で倒れて寝たきりになった祖父が入院・転院した病院は、飛び交うことばや触れる手が祖父が望んでいた「尊厳ある生」からは随分とかけ離れていて。かといって、入院治療や在宅のケアに頼らなくては祖父は生きてゆけない現実もあって。同居する孫として、祖父がのぞまなかった生き方を強いてしまう日々に心を痛めていました。

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「すべてがしあはせになるのが福祉」

これは祖父が脳出血で倒れる少し前に聴講していた、関西学院大学  神学部 窪寺先生の「人間学」の講義ノートに綴っていたことばでした。このノートの存在を知ったのは、祖父が亡くなった9年後、2017年のことです。でも、当時の祖父が聴講生の友人を自宅に招いて語り合う声を聴きながら、何となくは感じていたのかもしれません。

祖父の病をきっかけに「生きる」という、それまで当たり前だったことに、たくさんの問いが生まれました。答えを見つけられる場所を求めて大量の大学案内を取り寄せ、その中で唯一目に留まったのが、関西学院大学の『空の翼』の中にあった、ゼミの恩師でもある武田丈先生の記事でした。

今読み直すと「この短い記事で何がわかるんだろう?」と、いうくらい小さな記事なのですが。武田先生のゼミ、通称JOEゼミには「この記事を読んで関学に来た」という仲間が他にもいるほどでした。この写真も、わたしががんになった後ゼミの友人が持ってきてくれた冊子を撮影したものです。実際に、わたしはJOEゼミで一人ひとりの声を聴くこと、それを社会で共有していくための人としての在り方のようなものを教わったような気がしています。


ゼミで学んだ参加型アプローチについての資料

そんな切実な想いをもって入学した学科でしたが、肝心の祖父のことについて、周囲にそこまで深く打ち明けていなかったように記憶しています。深いところまでことばにできるほど気持ちの整理がつくのは、その数年後に祖父が亡くなり、さらにうんと後のことでした。

授業はほとんど休むことなく、空き時間は体育会の部活と書店でのアルバイト、図書館での自習。僅かな空き時間で遠方の福祉施設までボランティアにも通い、社会福祉士になるための現場実習ももちろんいくつもりで指導を受けていました。

そんな準備を進める中で、授業やボランティア先で見聞きした些細なことばや光景が、患者家族の心には棘のようにチクチクと刺さることも少しずつ積もっていました。理想と現実、制度と個人、なにより専門職としての自分と、患者家族、ひとりの人間としての自分。患者家族としてまだまだ混乱の中にあったわたしは、現場にある数えきれないほどのジレンマと上手く付き合うことができなかったのです。

結局は、現場実習に行くのかという最後の最後のタイミングで「自分が福祉専門職としていのちと向き合うことは難しい」という結論を出し、担当だった先生に謝り実習に行くことを辞めました。大学2年生の終わり頃だったと記憶しています。

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スライド「そのあと」を生きる より

当時の社会福祉学科は、まだ現場実習に行く学生が大半でした。実習に行くことを辞めたわたしは、その道からドロップアウトしてしまったように感じていて。皆が実習へ行く3年生になると「何のためにここに来たんだろう」と、すっかり迷子になっていました。「実習を、福祉の道を諦めた学生」というレッテルを自分に貼り、どの授業でも後ろめたさを抱えてる日々。授業の終わりに提出するコメントカードもことばが見つからなくて、いつも大きな字でことばを拾って埋めていました。

そんな大学3年生の春に受講したのが、藤井美和先生の「死生学」の授業でした。入学した時から、この授業で学ぶことを目標にした大切な授業。死にゆく人は何を感じるのか、まわりにいるわたしたちには何ができるのか。今想うと、当時のわたしは祖父の尊厳を守るための「ひとつの答え」を求めていたように思います。でも、考えれば考えるほど、それは無限の色があって、掴むこともできない虹のように、儚く消えてしまうものなのかもしれません。

授業の中で、おそらく受講していた学生の大半が強い関心を持っていた「死の疑似体験」のワークというものがありました。自分が「死ぬ」ということを体験するワーク。記憶が朧気ですが「あなたはあと半年のいのちです」という藤井美和先生の声とともに、人生の「大切なもの」を綴りながら、一つずつ手放してゆくようなワークだったと記憶しています。

唯一しっかりと覚えているのは、先生のガイドとともに紙に書き綴る同級生の鉛筆の音や、大切なものを手放す中で何か心が動いて涙をすする音。まわりの同級生が何かを見つけ、心を動かしていることを感じるその音の中で、わたしの鉛筆は何も綴ることができず、しばらく真っ白な紙と睨み合っていました。

それでも「自分はこの授業で生きることの答えを見つけにきたのだから」と、無理やりことばをひねり出してワークに参加し続けました。そんな風にして書き綴ったことばが何だったのか、何を選んだのか、まったく思い出せません。

それからうんとあと、大学時代同じ学科、同じ部活、そして藤井美和先生のゼミ生でもあった友人と死生学の授業の記憶について語り合うことがありました。「あのワークの後、みちが『自分に失望した』って自分に対してすごく怒ってたような気がする」と友人は教えてくれました。わたしはその時のことをまったく思い出すことができませんが、365日顔を合わすほどだった友人が鮮明に覚えているのだから、よほど印象的だったのだと思います。

友人と話した後、実家の屋根裏に上ったことがありました。教科書を手元に置くほど大切にしていた授業は、講義ノートもすべてのこして屋根裏にのこしていたからです。でも、数ある講義ノートの中で、死生学の講義ノートだけはどうしても見つかりませんでした。きっと自分が綴ったことざに失望するあまり、丸ごとどこかへやってしまったのだと思います。

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スライド「そのあと」を生きる より

社会福祉学科を卒業後、わたしはメディア制作の仕事に就きました。印刷会社の営業、広告会社の編集、Web制作会社のディレクター……社会福祉の道に進まなかった後ろめたさから、母校からも足が遠のいていた時期もあります。

ただ、自分なりに「一人ひとりの生」と向き合う方法について模索し続けていて。制作の現場で学び、写真表現や編集・ライティング、製本の学校にも通いながら目の前のひとりの想いを掬い上げる術や、それをかたちにする術を学び続けていました。その道半ばで祖父を亡くし、別の家族もがんで亡くし。家族をがんで亡くしたその半年後、わたし自身も妊娠、流産、そして絨毛がんを告げられました。

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ZINE『かぞくのことば』より

「がん」の2文字を告げられた夜は、すでに子宮、卵巣、両肺に病変が広がった状態で、入院治療中。今すぐではなくても、そう遠くない将来死ぬのだろうという思いが頭をよぎりました。夜の病室のベッドに横たわると、今までの人生が走馬灯のように駆け巡ります。その中でふと響いたのが、大学3年生の春「死生学」の授業で聴いた藤井美和先生の声でした。

「あなたはあと半年のいのちです」

死の疑似体験のワークで、藤井美和先生がわたしたちに問いかけた一言。何故かその一言を思い出し、ふと「わたしが大切にしたいものは何だろう」という問いが浮かび、時が止まりました。

「最期まで正直に生きたい」

大切にしたいことはそれだけでした。授業では一言も思い浮かばなかったそれが、驚くほどくっきりと浮かび、とっさに手元にあったスマートフォンの未送信メールに、のこされた時間でやりたいことと会いたい人の名前を書き綴りました。

会いたい人の一番上は恩師の武田丈先生で、その次に、いつかこの夜のことをお伝えしてお礼が言いたいと、藤井美和先生の名前も綴っていました。


2017年4月「キャリアデザイン」@関西学院大学より

その後、わたしは40本の抗がん剤を経て寛解。体調が落ち着いた2015年の1月、武田丈先生に会うために、卒業後初めて母校の人間福祉学部を訪れました。新しくなった校舎の研究室で迎えてくださった先生は何も変わらず、わたしのZINEの活動も覗いてくださっていて。活動のヒントになればと、先生の研究資料やフォトボイスのプロジェクトで制作したというZINEをプレゼントしてくださいました。その一つ一つが、またその日からを生きる種となり、少しずつ育みながらZINE作家としての今日のわたしがあることは、今までも何度か綴ってきたとおりです。

わたし以外にも、大学時代の友人が人生の節目節目に先生の元を尋ねたという話を聴くことが良くあります。社会や人生という大海原で迷ったわたしたちを、灯台のように迎え、心を整え見つめた先をそっと照らしてくれる先生の姿勢こそ、ソーシャルワーカーとして、人として、何か困難を抱えた人と向き合う姿勢なのだと、友人たちから話を聴くたびに思います。

そしてもう一人、いつかお会いして一言お礼を言いたいと願っていた藤井美和先生。ゼミ生だった友人に連絡先をきいてみようと思ったり、大学宛に手紙を書こうと同級生の先生に宛名の書き方を尋ねたこともありました。しかし、10年以上前に、大きな教室で先生の授業を聴いていたひとりの学生でしかない自分には、中々勇気が出ませんでした。

その後、まったく違う場所…がん患者として相談に伺ったマギーズ東京で、共同代表の秋山正子さんから「大阪ならこの病院のサロンは相談にのってくれるはずよ」と教わった病院が「死生学」の教科書に登場していた、藤井理恵先生が働く病院でした。

大阪に帰ると本棚にしまっていた『たましいのケア』を読み直しました。その後、祖父が晩年聴講していた「人間学」を担当されていた窪寺先生もこの病院で働いていたことを知り、わたしはがん患者として相談に行くのではなく、サロンボランティアの志願者として病院を訪れました。それから面接や研修を経て、週1回その病院のがん患者サロンのボランティアとして病院で耳を澄ませる日々が続いています。

ボランティアをはじめて半年が過ぎた頃、母校の式典に参加した折、恩師が藤井美和先生にご挨拶するきっかけをつくってくださり、がんになって4年目を迎えた春に初めてご挨拶することができました。

学生時代に死生学を受講していたこと。29歳でがんになった時、授業で先生から教わったこと、自分とほぼ同じ年齢でいのちにかかわる大きな病を経験しそのあとを生きる先生の存在がみちしるべであったこと。わたしも生きることを見つめて考え続けたいと、理恵先生のいらっしゃる病院でボランティアをはじめていること…。

ゼミ生でもない10年以上昔の卒業生にも関わらず、本当にあたたかいことばをかけてくださり、後日わたしがWebサイトに綴っていた今までの活動の足あとを一つずつ辿り、あたたかいメッセージをくださいました。その後「第13回生と死を考える市民講座『いのちの物語をつむいで』~ことば・絵本・音楽の視座から~」の展示にもお越しくださり、再会から1年後の春、藤井美和先生のゼミに伺うことになったのでした。

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「そのあと」を生きる 、当日の様子

ゼミに伺うにあたり、藤井美和先生から2つの想いをお預かりしました。ひとつは、同じ大学の卒業生として、がんに限らずさまざまな「そのあと」を生きてきた中でわたしが感じてきたことを、無理のない範囲で学生におはなしてくださいということ。もうひとつは、学生たちも何か自分の中にあるものを見つめ「本に綴じること」を体験するワークショップの時間を持ちたいということ。

相談の結果、春学期はさまざま「そのあと」を経験してわたしが感じてきたことをお伝えする時間と、今まで綴じてきたたくさんの手製本に自由に触れてもらう時間に。秋学期は学生のみなさんが「大切なもの」を1冊の手製本に綴じるZINEワークショップの時間に。春と秋という半年の時間をかけて、2部構成のかたちをとることになりました。

そして伺ったのが、春のおはなしにあたる11日のゼミでした。おはなしの前月にも一度ゼミの様子を見学する機会をいただき、スライドを作成。学生のみなさん一人ひとり、それぞれの想いがあり、それぞれのまなざしで生きることを見つめて考えていらっしゃることを感じ、今までのどの講義や講演よりも踏み込んだ記憶をありのままにお伝えしました。

阪神・淡路大震災という大きな喪失の「そのあと」の町で育って感じたこと。家族の病や死。そしてわたしの流産やがんを経験した「そのあと」を生きる中で感じたこと。「そのあと」を生きるために本に綴じてきた「大切な記憶」について……学生のみなさんも、それぞれが感じたことを質問やメッセージというかたちで綴ってくださいました。

学生時代のわたしがそうであったように、何か「考える種」になるようなものを手渡すことができたらなとおはなしした時間でしたが。それ以上に、学生のみなさんが感じて伝えたくださったことばの一つひとつに、わたしの方が「考える種」をいただいた時間でした。

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藤井美和先生と、レストランポプラにて

5限目のゼミの後、学内にあるレストランで藤井美和先生とおはなししました。先生の笑顔とともに語られる、卒業生一人ひとりとの交流。そのあたたかなまなざしと声で、それぞれの卒業生の想いに触れる時間は、知識や技術以上に人として、そしてともに生きる上で大切にしたいことを改めて確認できたひとときでした。

普段活動についておはなししたり、想うことを綴ったりすると「サバイバーになったからそういう活動をしているのね」というような声をかけられることがあります。確かに、若くしてがんを経験したことは大きな出来事ですし、全員が寛解できる訳ではない難しい病気の経験者として生きていることは、動機の大きな部分を占めています。でもそれだけであれば、もっと違う「そのあと」を生きていたと思うのです。

寛解後「本に綴じる」という立場で「大切な記憶」というものを見つめ続けていることも、ボランティアというかたちでホスピスのある病院に居続けていることも。18歳から22歳の4年間、関西学院大学という場所で「生きること」を見つめた日々があったからこそ。そして卒業後も、わたしのように人生の岐路に立った節目に母校訪れる卒業生を、いつまでも先生として、また一人の人間として迎え、心に触れ交わしてくださる先生がいらっしゃること。その先生方の生き方こそが、わたしが今の活動を続けている原動力なのだと確認した夜でした。

レストランを出た後、すっかり暗くなったキャンパスを歩きながら、先生が大切にされているというバラを見るために、文学部の裏にあるバラ園へ行きました。

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先生からいただいた、昼間のアンネのバラの写真

アンネのバラ (Souvenir d’Anne Frank) 。アンネ・フランクの「形見」としてベルギーの育種家さんが創り、アンネの父、オットー・フランク氏に贈られたものだそうです。

『アンネの日記』……小学生の頃、何度も読んだ本の中で生きていた人から贈られた花が、キャンパスに咲いている。こんなことがあるのだなと。このバラが日本にやってきたのも、イスラエルを訪れていた日本人の合唱団がレストランで偶然オットー・フランク氏と出会い、その後の交流で庭で育てていた中から贈られたそうです。わたしが育った西宮には、このアンネのバラが咲く「アンネのバラ教会」があること。その教会を通して、5株が関西学院大学のバラ園にもやってきて、毎年花を咲かせていること。どれも初めて聴くおはなしでした。

蕾の時は赤、花がひらく頃には黄金色、サーモンピンク、赤と色が移ろう花だそうで。すっかり暗くなったバラ園をライトで照らしながら見つけた花や蕾も、それぞれのグラデーションを宿していました。色はもちろん、その花にこめられてきた想いもまた、一言では言い表せないさまざまな方々の想いがこめられているのだなと。花の成長をずっと見守る先生からおはなしをお聴きして、特別な花になりました。

一瞬の出会いがつながって今があること。花一輪一輪、一人ひとりとの出会いを大切にされている先生の心に触れ、またひとつ大切な記憶が増えた夜。社会学部の大きな教室の端っこで、先生の声をただただ一生懸命聴いていた14年前のわたしには、こんな日が来るなんて想像もできなかった夜でした。小さなバラの花の見つめながら、地面に落ちていた花弁から一片だけ、今日の記憶として持ち帰りました。

とても長くなりましたが、そんな時間の中で、一つひとつの出会い、経験をつなぎなおした母校でのひとときでした。関西学院大学という場所、迎えてくださった藤井美和先生と学生のみなさんにも、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。秋の本づくりでまたみなさんと再会できることを、たのしみにしています。

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Schedule

Event / Exhibition / WS
7/18 「“大切な記憶”を手製本に綴じる」-金城学院大学 人間科学部 コミュニティ福祉学科 (愛知県名古屋市)*closed
7/18 「“ひとり”の声から社会を見つめる」 -金城学院大学 人間科学部 コミュニティ福祉学科 (愛知県名古屋市)*closed
*「“まなざし”と“声”を綴じる」ZINEワークショップ 大学の看護学科(兵庫県神戸市)*closed
*「“大切なもの”を手製本に綴じる」ZINEワークショップ-関西学院大学 人間福祉学部 (兵庫県西宮市)*closed
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記憶のアトリエ
7/25「記憶のアトリエ」in ノキシタ(宮城県仙台市)
8/17 「記憶のアトリエ」in 音川 (富山県富山市)
8/30,31 「記憶のアトリエ」 in トコテコ紙芝居小屋 (兵庫県宝塚市)
10/19「記憶のアトリエ」(大阪府大阪市)
11/9「記憶のアトリエ」in 幸ハウス(静岡県富士市)
「記憶のアトリエ」 in トコテコ紙芝居小屋 (兵庫県宝塚市)は秋、冬も1回ずつ開催予定です

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