花について考えると、いつも頭の中がぐるぐるします。どんな花も美しくて、でもどの花も咲いた瞬間から枯れてゆく。私たちよりうんと早足なその「生」に、ついていけないことばかりです。
美しく咲く姿は生きていることの象徴のような存在でもあり、死者に手向ける花に人がこめるものは、到底言葉にはできない。人それぞれ、そしてその時々で、時に正反対の色をした想いが重なる。花という存在について考えると、なんだかぐらぐらするのです。
記憶を辿ると、桜の町で生まれ育った私にとって、花とは毎年当たり前のように空を埋め尽くして咲くもの。雨風とともに散っても、季節が巡れば必ずまた戻ってくる。それが永遠ではないことに気が付いたのは、10歳の春。生まれ故郷を離れ、その環から切り離されて初めて花との別れを経験しました。
故郷を離れて震災後間もない町へ越してからは、更地や道端に手向けられた花束に、まったく違うものを感じるように。ある日突然手向けられては、日に日に枯れてゆく花束たち。静けさの中にあって、強く語りかけてくる何かもあって。でもどれだけ想いを巡らせても、その花の本心には触れることができない。そんな花たちを横目に通り過ぎる日々に、いつも心の奥がぎゅっと締め付けられていました。
そして大人になり、がんになり「お見舞い」として本当にたくさんの花束をもらいました。なぜか向日葵がとても多くて、大半の人は「私のイメージだから」と太陽のように眩しいその花を贈ってくれました。嬉しい反面、贈られたその瞬間から例外なく枯れてゆくその姿を毎日見続けるのがどうにも苦しくて。果ててゆくその花に自分の未来が重なり、手にすることも億劫になっていきました。
そんな理由から生花とは距離を置いていた頃に出会ったのが、花店noteさんのシャーレ。緑地公園駅近くにある書店 blackbird booksさんの店内で月に1度だけオープンされている花店です。生花やスワッグに交じって並んでいた直径9cmほどの小さな透明な器に、季節の小さな花たちが閉じ込められていました。乾燥後に手入れされて閉じこめられたその花たちは、出会った時のほぼそのままの色かたちで在ってくれる。そう教わると、これなら大丈夫かもしれないと、掌の中にすっぽりとおさまるその花たちを毎月コツコツと集めるようになりました。
生花は避けながら、その小さな花を集めるために通い続けて半年が過ぎた先週末。いつもはあまり見ないようにしていた生花の山の端にいたニゲラの花にどうしようもなく惹かれて、初めて生花を購入してしまいました。
包んでもらいながら「生花は枯れていくのがさみしくて」「お手入れはどうしたら長持ちしますか?」「さよなら(花器からあげる)のタイミングは…」と独り言のようにぽつぽつ呟く私に、オーナーの吉川さんが一つずつ丁寧アドバイスをくださり、少し前向きな気持ちで一輪挿しと一緒にお持ち帰り。今は毎朝ドギマギしながら窓際のニゲラを見つめています。
一輪の散りゆく様を見届ける。そんな暮らしも今の自分には必要な気がして、シャーレと、時々一輪を見届けることも営みとして、花について見つめなおしたいと思います。