「身体」#掬することば

ZINE『掬することば』より

尊敬するサバイバーの先輩からのご依頼で
向き合っているとある制作に関連して

ここのところずっと
「ことばに宿る身体性」
のようなものについて考えています


学問的にどうこうという知識はなく
これまでの体験に基づいた
今のわたしの感覚ですが

たとえば病気などの体験を抱えたとして
それを体験した「この身体」に宿った
言葉には到底できない何かと
懸命に向き合い続けて紡がれたことば(声)と

同じように体験していても
テキストでも音声でも
自分の身体の外から集めた
言語化された情報を起点に
自分の表現したいことを当てはめて
表現しているテキストや音声は

上手くは言えないのですが
何か少し違っているような気がしていて

特に後者は、SNSやAIの力も借りて
数多の情報から探して、学んで
より早く理想的な言葉を掴めるのだけれど

もちろん、悩んで検索して考えて
ある意味ちゃんと体は使っているし
自分の頭の中は何周も巡っているのだけれど

自分の身体そのものが
起点のことばと比べると
言葉が少し浮いているというか

自分の身体や心とその言葉が
ちゃんとつながれているのか
言葉がだけが整理がついて
前を歩いてしまっていないか
その言葉が自分の今から離れて
苦しくなっていないか

問いが生まれることも少なくありません


病のただなかにある
「このわたし」を紡ぐための
言葉と身体の関係性は
ニワトリとたまごみたいなもの
のような気もしていて

言葉で整理をつけるから頑張れる
言葉を前に投げるからそこに向かえる
言葉で形を与えるからこそ周りと共有できる
という力ももちろんあるだろうし

前者と後者に優越はもちろんないし
何よりわたしがアナログな物事との向き合い方に
軸足が残っている人間
だからなのかもしれませんが

自分のことばはもちろん
目の前の相手でも

その言葉がちゃんと
その人の心や身体を通って
紡がれていることばなのかは
すごく気になります

特に、患者さんやご家族さんの
おはなしを伺っているとき

それが身体を通っていない言葉であると
主語が「わたし(語り手)」
になっていないというか
本当にその人が表現したいことよりも
主語が少し大きくなってしまっていたり

声の響きや表情など
わたしの目の前にいらっしゃる相手の
非言語から感じるものとの間に違和がある
ということが少ながらずあります

特にmichi-siruveとして
ZINEなどの制作で
依頼主のみなさんと関わるときは

その違和を手繰り寄せて問いを重ねると
だんだんとその人の心や身体の
もうひとつ奥にある
ほんとうのことばと出会えるということも
少なからずあるからかもしれません


でも、ことばにするというのは
本当に難しいことで

情報が起点であっても
言葉でかたちを与えるのは
大切なことだとも思います

一方でその人が「このわたし」
(この心と、この身体)の感覚と
忍耐強く向き合って
紡がれたことばに出会うと

自分の心や身体の感覚も呼び覚まされて
自分の心や身体と向き合い
みつめなおす力をいただけるような感覚があって

そんなことばを紡ぐ力をもつ人は
本当に尊敬しますし

講義や講演でお話する機会をいただくときや
自分が何かを綴るとき
できる限り、ちゃんと身体を通ったことばを
届けたいなと改めて思います

まとまっていませんが
そんなことを想う10月の終わりでした

まずは来月、医療の質・安全学会学術集会という
まったく初めての領域で
患者体験をお話する機会をいただいているので

そこでちゃんと、患者としての
身体を通ったことばを
届けられるように頑張ります


そういえば、尊敬するイラストレーターさんが
「うつしみ」ということばを
使われていたことがあって

「身体」ということばを
みつめなおすようになったのは
そのあたりからかもしれません

そんなことも含めて
このことばをあらためてみつめながら
過ごしたいと思います

からだ【身体】コトバンク

( 古くは「しんだい」とも ) 人間のからだ。肉体。体躯(たいく)。身(み)。しんてい。

コトバンク