大阪府保険医協会様が発行されている月刊誌『大阪保険医雑誌』2015年12月(591号)の巻頭「ピープル」のコーナーに寄稿させていただきました。このコーナーでは、毎号医療の分野に関わらず大阪の街で様々な活動をされている方々がエッセイを寄稿されていて、この度は「私が“記憶を綴じる”理由」というタイトルで、20代での癌闘病の経験から、ZINE作家michi-siruveとして記憶を綴じる本の制作をはじめた理由や、今の活動について執筆させていただきました。
「人の生と向き合いたい」と社会福祉学科へ入学した18歳の春からもうじき12年の月日が経ちますが、今こうして自分なりに「人の生と向き合う」道を歩みはじめたタイミングで医療・福祉に関する場に寄稿する機会をいただけたことに、何かの縁を感じています。文章のみこちらにも掲載させていただきます。
※編集部の方に許可をいただいております。
「それで、私はあとどのくらいで死ぬんですか?」今から遡ること1年9ヶ月前、とある大学病院の病棟の小部屋で、絨毛癌という稀な病を告げられた私が最後にこぼした一言だった。家庭も仕事も順調だった29歳の冬、初めての妊娠が一転して緊急搬送、手術、抗がん剤治療。悔し涙を流したのはその夜だけで、翌日には「余命を知らされたら隠さず教えて欲しい」と主人へメッセージを送り、ベッドの上で遺書も打った。一時退院前には早速家族全員に囲まれ「やはり余命は限られているのか」と覚悟を決めると、私の大好きだった祖母が実は私の手術の翌日に他界していたと聞かされた。祖母が自分の命に代えて生かしてくれたのかもしれない。すると生と死の間を彷徨っていた迷いがふっと消え、生きなければという覚悟だけが胸に残った。
幸い8クールの治療で寛解し、真っ先に祖母の遺影へ手を合わせに行った。遺品だけが佇む部屋で、1つの命と共にいかに多くのものが失われるのかということを痛感した。生かされた私に何ができるのか。元々本づくりを生業にしていたこともあり、とっさに「綴じなければ」と思った。とはいえ治療明けの弱った体ではカメラを構えることもできず、自宅和室の障子越しの西陽を利用して、アイロン台の上に遺品を並べて、携帯電話のカメラで撮影しては横になり…の繰り返し。何週間もかけて撮影を終えるとそれぞれの遺品に私の語りを添え、自宅で和紙に印刷し、和綴じで仕上げた『otomo(オトモ).』という本を完成させた。国内外のART BOOK FAIRで展示販売をすると予想外の反響があり、1人の人間の暮らしの品を綴じただけの手づくりの本に、ここまで人の心を動かす力があることに驚くばかりだった。
それから1年。ZINE作家として、人の記憶を綴じた手づくり本を作り続けている。命を育むことが叶わず、それでも生かされた私に何が遺せるのか。再発の不安と隣り合わせの今日をどう生きるのか。健康も仕事も明日の保証も見失いながら、祖母の遺品を綴じた自分が出した答えが「次の世代へのこす本をつくる」ということだった。人々の暮らしの記憶を預かり、私の手で1冊の本に綴じる。オーダーメイドの本の制作や手づくりの本をつくるワークショップなど、この1年で自分の手で綴じ、手渡していった本は100冊を越えた。この秋からは「掌(てのひら)の記憶」という個人的なプロジェクトも立ち上げ、縁のあった町へ赴き、町の人の暮らしに寄り添ってきた品々を撮影し、そこに宿る“日本の記憶”を掌におさまる小さな本に綴じて、町と私の手元にのこしていくという活動もはじめた。町から消えつつある記憶を綴じ、未来へと続く道標に変えていく。47都道府県分の記憶を綴じ終えたら、個展の形でその記憶を多くの人々に伝えようという、小さいながらも大きな夢である。
誰しもいつかはその生を終える。そしてそれがいつかは誰にもわからない。だからこそ私は、生きている限りは今日の生を綴じ続け、次の世代へ繋げていきたいと思う。