「澄(すむ)」#掬することば

今から13年前、大学4年生のお正月から何となく続けている今年の一文字。それについてはひとつ前の「深(ふかめる)」という記事で綴りました。

その結びにも添えたとおり、2019年はわたしが絨毛がんに罹患して丸5年。夏には寛解して5年を迎えます。

何年経ったからどうというものでもないし、それが何年なのかは一人ひとり異なるもの。それでも、一般的に1つの区切りと認知されている「寛解から5年」という数字を迎えるということを、意識しすぎている自分がいて。2019年の一文字をどうするのか、秋ごろからすっかり迷子になっていました。

広、展、開、咲……気がつくと、この5年間の結びになるような、実を結び次の姿に変わるようなことばばかり集めていて。でも、決して前向きな気持ちではなくて「そうならなくてはいけない」「そう変わらなくてはいけない」と無意識にプレッシャーを感じていた裏返しでした。

そしてそれは、がん経験者であることをオープンに生きた4年間で受けとった、さまざまな問いかけやことばからきているものでした。

がんであることを公表すると、がんについてさまざまな質問を受けました。どんながんで、どのくらい進行していて、どのような治療を受けているのか。“妊娠”がはじまりなだけに、その原因を求める人もたくさんいました。後遺症やその後について尋ねる人もたくさんいました。

どれも「がん」ということばをとりまくイメージが、その人に与えてきた不安からきている問いでした。公表している自分だから、経験している自分だからできることとして、問われたことにはできる限り冷静に、誤解を生まないよう答えることに努めてきました。でも本当は、心の中はがんという荒波でボロボロの状態。世の中が生み出した「がん」への偏見や過度な不安を受け止めるのは中々重荷でした。

寛解後は「遠隔転移もしていたけれど、抗がん剤治療が効いていったん寛解しています」と添えるようになりました。 すると「がんを乗り越えた」とか「がんに勝った」とか、とても強い人だというように「強いことば」をかけられるようになりました。

乗り越えるものなのか、勝つものなのか。その響きにどこかひっかかる自分がいました。それは裏返すと、乗り越えられないもの、負けるものということにもなってしまう。そのことばを選ぶことに、前向きになれないでいました。

それは、がんになって「ものごとの反対側」がとても気になるようになったからでした。若くしてがんになること自体、今までの当たり前が丸ごとひっくり返るような経験です。さらにわたしが罹患した絨毛がんは、 妊娠が原因。育むはずだったいのちの種ががんとなり身体中に広がり、生と死がオセロのようにくるくるとひっくり返るような感覚でした。

わたしはたまたま、良く効く抗がん剤があり寛解しましたが、病院やさまざまな場所で、他のがんで治療を受ける方々との出会いもありました。わたしより前に後にがんに罹患し、少なからず旅立っていった友人もいます。旅立ったその人のまわりには、大切な家族や友人がいて。別れがくるたびに、その一人ひとりを想うたびに。ことばにできないくらい複雑な、どうしようもない気持ちになります。勝ったとか、乗り越えたとか、強いことばをかけられるとそのどうしようもなさが増してゆきます。

でも、もう少し時間を巻き戻して冷静に振り返ると、わたしも罹患後間もない頃は「闘病」という気持ちが大きくて、スポーツという勝ち負けのフィールドに身を置いていた頃と同じスタンスで挑んでいました。

それ以外のスタンスを見つけることも、見つける時間もなく治療がはじまってしまったし。心身ともにつらく苦しい暗闇の中で、強いことばを少し前に投げることで、それに向かってゆくこともまた必要なことだったのかもしれません。そんな強いことばを必要とする時期も、価値観もあるのだな。そう思います。

それからさらに寛解から月日が経つにつれ「元通りの暮らしに戻れていますか?」「社会復帰されていますか?」と尋ねられることも増えました。その問いには、随分苦しみました。

がんが寛解した時、そのあとしばらくも、わたしは寛解したことが本当に信じられませんでした。 妊娠からたった2か月で、子宮、卵巣、両肺まで星屑のようにがんが散らばっていた状態。その進行の早さは、体の主として誰よりも体感していました。「妊娠」という状態と、それががんになり母体が蝕まれていくという状態の乖離も大きすぎました。

そして「がん」ということばに対して、罹患前のわたしが周囲から聴いてきた声も、とても偏ったものでした。20代という「若い年齢」であること、すでに血流に乗って「遠隔転移」していること。そのふたつがかけ合わさった先には「死」というイメージしかありませんでした。

治療自体も何か摘出できた訳でもなく、抗がん剤後の血液検査の結果として、印字された腫瘍マーカーが「陰性化した」ことだけが確かな証。なんとも不確かさで、生きてゆけるという実感を取り戻すことは、中々できませんでした。

(誤解を生まないように添えておくと、当時の医師の説明からも、医療機関の発信している情報でも絨毛がんは「寛解を見込めるがん」ということばは受け取っていました。稀ながんで、悪性度が高く進行も早いものの、抗がん剤が非常に良く効き、8クール40本の抗がん剤で寛解に至っています

1ヶ月、2ヶ月と検査をクリアし「寛解した」という事実が積み重なるうちに、少しずつ「生きること」に気持ちを向けられるようにはなり。 せめて、今生きている自分ができることとして、のこされた時間は恩返しにあてよう。と、本を綴じることを続けてきました。

それでも、がんになる前の自分に、暮らしに戻ることはできていません。「元」って「社会復帰」って何なんだろうと、いつも答えに困ってしまうところがあります。

「赤ちゃんは?(助からなかったの?)」「お子さんは?(いらっしゃるの?)」「妊娠は?(またできるの?)」「お仕事は?(会社復帰されたの?)」「何年前?(に寛解したの?)」

寛解から日が経つほどに、そんな問いが積み重なります。一方で、心も体も元通りにはならず、霧の中のような日々。それでもいよいよ5年目を迎える2019年という年に対して「実を結ばなければ」「変わらなければ」「前に進まなければ」という焦りが募り、前に進めるような一文字を探していたのだと思います。

でも、ことばにできないもやもやをぬぐうことができなくて。2018年末に少し時間をとって立ち止まり、この4年間で綴ってきた文章や、綴じてきた手製本のZINEを読みなおしました。

その時、ふと目に留まったのが、 がんになり3年の節目に、3年間の心の揺れを28篇の詩にした『汀の虹』一.深淵の「耳を澄ます」という詩でした。

この詩は、入院して抗がん剤治療を受けていた、夜の病棟の記憶を綴ったものです。耳を澄ませていたのは、がんという暗い海の中の、がん患者の声にならないことばが沈んだ病室の静寂に対してでした。

4年経った今、この詩を読んでふと足元を見つめなおすと、がんによる混乱の荒波は静まりつつある心の海が、以前よりも澄みつつあることに気づきました。その海の底には、今の自分だからこそ見える、掬い上げられるものがたくさん沈んでいるような気がしています。

きれいになった上澄みだけを掬うのではなく、さざ波が落ち着いたこそ見える心の奥底をきちんと見つめて、隠さず掬い上げたい。そして、澄んだ水鏡に映る「5年を経た自分」をもう一度きちんと見つめたい。

2019年は「澄(すむ)」かもしれない。とても静かに、穏やかに、澄んだ気持ちでその一文字が掌に降ってきて、そっと抱きながらことばの意味を調べました。

澄[すむ]
1 水や空気などに濁りがなくなり、透きとおった状態になる。
2 光や色などに曇りがなく、はっきり見える。
3 音がさえてよく響く。
4 心配や邪念がなく、心がすっきりしている。
5 清音に発音する。
6 雑音がおさまって静かになる。
7 すましこむ。気取る。
8 上品で落ち着いている。地味な感じがする。
9 物事の筋道がはっきりする。道理が明らかになる。

1 濁りをなくしてきれいにする。
2 道理を明らかにする。

デジタル大辞泉

「澄(すむ)」ということばには「濁りがなくなり、透きとおった状態になる」という意味があります。底にあるものが「消えてなくなる」という訳ではなく、静まることで澄んでゆく。 わたしはそう受け取っています。曇りがなくはっきり見え、音がさえてよく響く。物事の道筋がはっきりする。そんな意味もあります。

昨年からはじめた大切な記憶に触れ、綴じる小さな移動アトリエ「記憶のアトリエ」も、そんな静かな空間で心を見つめるひとときを贈りたくて、ともにしたくてひらいているようなものでした。静かな空間だからこそ、耳を澄まし、見つめ、本に綴じることができるものがある。

それをより大切に1年過ごしてゆくには「澄」ということばがぴったりだなと感じています。

自分の心も、目の前に居る人の心も、静かに耳を澄まして見つめながら、この1年を過ごそう。そんな気持ちを、2019年最初の「掬することば」としてここに置きたいと思います。

2019年もmichi-siruveの活動を、そして「掬することば」を、よろしくお願いいたします。

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