最近、「優しさって何だろう?」という問いに思いを巡らせています。
言葉や写真の加減か、綴じた本を手にとってくださった方から「優しい」という言葉をよくいただきます。がんを経験してから本を綴じ続けたこの3年、本当によくこの言葉をいただくので驚いています。
でも自分は「優しい」という言葉からとても遠い人間だと感じています。大切なものや人を失うことによるかなしみが原動力になった、心の奥にとても頑固で譲れないものがあって。
いつもよく言えば俯瞰した、実際のところは冷たくかなしいまなざしで世の中を見つめていて。距離をおいて見つめ、ことばを置くことで何とか心と折り合いをつけて生きている。心の中はいつも深く冷たい青色に満ちています。
なので、どうして「優しい」と言われるのか本当にわかりません。辞書で調べなおしてみたところで、そもそも「優しい」とは何なのかも、実感として掴むことができずに困っています。
そんなこんなで端から自分は優しくないと思ってきたので、今までは「優しい」と言われても「そんなことないんですよ」と心から返していました。「優しい」という言葉は「何となく(よくわからないけど)あたたかいと感じてもらったときにいただく言葉」というようなニュアンスで捉えていたように思います。
でも先日、豆本詩集『汀の虹』を読んでくださった大切な人から「優しさは受けとる相手が感じるもの」という言葉をいただいて、その感覚に少し変化が生まれています。
確かに、詩集の中でも、2回だけ「優しい」という言葉をつかっていました。一つは「しとしとと降る 優しい雨音」もう一つは「いつかもらった優しい言葉」。どちらも私がもらって、感じたものでした。
私の表現に「優しさ」を感じてその言葉をかけてくださる皆さんの心の奥にどんな揺らぎがあるのか、聴くことで「優しさ」とは何なのか、自分なりに考えるきっかけになるかもしれません。
そんなことに思いを巡らせている、日帰り東京旅。今日は連載でお世話になっている日本看護協会出版会の編集者さんから教わったマギーズ東京チャリティーイベント「生きるを考えよう、語ろう」に参加します。「生きる」ことと「優しさ」(を受けとること、贈ること)は私の中ではとても密接にあることなので、これもまた手繰り寄せる手がかりになるかもしれません。
皆さんにとっての「優しさ」はどんなものでしょうか?またぜひ聴かせてください。