【Interview】「映画の都」に寄せるもの (前篇)

2013年1月7日。年明け間もない月曜日、宝塚のまちの小さな映画館に5000人近くの署名が集まった。まちの映画館が次々と閉館する中、この映画館にはなぜそれほど多くの人が想いを寄せたのか?そこに隠された、かつて「映画の都」とも呼ばれたまちと映画の繋がりを、そっと手繰り寄せる。

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50席のシアター。一見よくある映画館だが、非常時には避難所として機能するように、様々な工夫が隠されている。

 

「映画館」という場所

そもそも、「映画館」という言葉を聞いて思い浮かべるのはどんな空間だろうか?たとえば、繁華街の大型ショッピングモールに併設された大きな映画館。大小10スクリーン近くのシアターが並び、中には500席近い大きなものある。上映リストのから一つを選び、導かれた大画面を前に上映を待つ―今多くの人が思い浮かべる「映画館」はそのような空間かもしれない。 一方で、一昔前まで親しまれてきたまちの映画館の多くは姿を消しつつある。新しい商業施設に客足をとられた。老朽化した設備を維持できない。何とか上映を続けてきた映画館も、一つ、また一つと閉館されていく。今から約100年前、日本で初めての映画専門館「浅草電気館」ができた浅草ですら、2012年には最後の映画館が閉館した。「映画館発祥の地」からも映画館が消えてしまった。そんな中、「映画のまち」の歴史を胸に、上映を続ける小さな映画館がある。

 

売布神社駅の小さな映画館

梅田駅から急行電車で揺られること約30分。淀川を越え北摂のまちを抜ける阪急宝塚線は、終着宝塚駅の手前から清荒神駅、売布神社駅、中山駅―わずか3kmほどの間に由緒ある神社仏閣の名が刻まれた駅が連なる。その真ん中に位置する売布神社駅の北側は、7世紀前半の創設とも伝えられる古社、売布神社の社叢と北摂の山並みがひろがるのどかな住宅街だ。振り返って駅の南側は、周囲より新しく整備されたロータリーと頭一つ抜けたパステル調の建物。そして壁際に掲示された映画ポスターが目に入る。「こんなところに映画館あるの?」という声も少なくはないが、その5階にあるのが宝塚市で唯一の映画館「宝塚シネ・ピピア」だ。知る人ぞ知るミニシアター。そして、全国でも珍しい公設民営型(市がつくり、民間が運営する)の映画館として、開館から14年「シネ・ピピア」「ピピア」と呼ばれ、まちの人々や映画ファンに親しまれてきた。

 

50席に5000人

「兵庫県宝塚市唯一の映画館シネ・ピピアを守るためにあなたの力を貸してください」。遡ること今から5か月前の、2012年12月末。「映画館存続に必要な予算がおりないかもしれない」という知らせで慌ただしくはじまった署名運動は、提出期限までたった2週間しかないという火急の事態だった。映画館立ち上げ当初の関係者を中心に、市民への呼びかけ、街頭での署名活動とお正月も返上。その様子を知ったまちの若手も、署名用WEBページを立ち上げfacebookやtwitterで加勢した。市や県、世代をも超えて集まった署名は結果的に5000人近く。存続のための機器導入を願う嘆願書とともに分厚く綴じられ、市へと手渡された。 「映画のまち宝塚の伝統を守り、市内唯一の映画館のより一層の活用を図るためデジタル映写機の導入費用について補助する」。2ヶ月後に可決した市の予算案には、560万円のデジタル化対応費用がしっかりと盛り込まれた。映画のまち宝塚。歌劇のまちとして親しまれる宝塚の、知られざるもう一つの記憶。それこそが、このまちが映画館を残そうと動いた大きな理由でもあった。

 

遊園地跡の秘密

「宝塚といえばねぇ。やっぱり宝塚歌劇!」「手塚治虫って習ったわ」「宝塚ファミリーランド。小学校の校庭から常に見えててん」「川沿いの温泉、安藤忠雄の設計やねんで」。まちのことを聞くと、名の知れた固有名詞がポンポンと返ってくる。しかし、今は施設の閉園や高齢化ですっかり寂しくなったと皆口をそろえる。一時は年間360万人もの観光客が訪れたという遊園地、宝塚ファミリーランドも2003年に閉園。阪急電車の車窓から見えたジェットコースターやスズラン型の観覧車も、人々の記憶の彼方に消えつつある。跡地に開園した庭園施設、宝塚ガーデンフィールズも、今年いっぱいでの閉園が決まった。時代の移ろいを象徴するようにスクラップアンドビルドが繰り返されるその場所が、次は一体何に姿を変えるのか?人々の注目が集まる一角に、かつて日本最大級の映画撮影所も存在したということは、実はあまり知られていない。

 

夢のまちから「映画の都」へ

近畿地方のほぼ真ん中に位置し、古くから温泉町として知られていた宝塚。今から約一世紀前の1910年、大阪梅田から宝塚を結ぶ箕面有馬電鉄の開通が、まちに大きな変化をもたらした。 鉄道利用促進施策として、翌年には武庫川の渓流沿いに 「宝塚新温泉」が開業。花火大会や宝塚歌劇もはじまり、新温泉は遊園地へ、時代を先駆けた観光地として発展した。大阪や神戸の人に限らずさらに遠方からも、家族連れやお小遣いを握りしめた子どもが電車を乗り継ぎ、胸躍らせて訪れる夢のまちだった。 その宝塚が「映画の都」とも呼ばれた栄華は、「日本映画の黄金時代」1950年代にぴたりと重なる。観客数11億2745万人(1958年)、映画館数7457館 (1960年)、制作本数547本(1960年) 。戦後の復興の中、日本がアメリカ、香港、インドと並ぶ映画大国に返り咲き、黄金時代への道を駆け上がった頃だ。1951年「宝塚映画製作所」開設。1956年にはハリウッドのスタジオを参考にしたという、最新鋭の設備を備えたスタジオ2棟とオープンセットが完成。敷地総面積は2万平米にも及び、当時日本最大級ともいわれた撮影所には400人以上の映画職人が集った。「映画の都」全盛期の姿である。

 

映画の栄枯盛衰とともに

約半世紀の間に宝塚でつくられた映画は劇映画176本、テレビ映画3200本以上。美空ひばりが若殿様に扮した時代劇ミュージカル『大当たり狸御殿』、若大将加山雄三主演の『海の若大将』。小津安二郎監督の遺作から一つ前、名女優原節子の最後の小津作品でもある『小早川家の秋』など、日本映画史に名を残す映画人の名がずらりと並ぶ。スタジオ内で大がかりなセットを組み、昼夜構わずの撮影。宝塚や西宮、大阪でも多くのロケ撮影が行われ、 巨匠監督や銀幕スターに出会うことも珍しくはなかったという。 撮影所の記憶が綴られた書籍「宝塚映画製作所 よみがえる〝映画のまち〟宝塚」にはこんな撮影エピソードが記されている。「荒涼として景観で知られる西宮の白水峡に大量の石灰と塩を持ち込んで、なだれを起こし、雪中の決闘シーンを撮った。大阪・吹田の草原では、風にたなびくススキを撮るため、何万本ものススキを手で植えて、大型扇風機を使って強風を 演出するなど、力の入った撮影だった――」。黒澤明監督のデビュー作であり、1965 年に宝塚で再映画化された『姿三四郎』のワンシーン。スクリーンの裏側に隠された作り手だけが知る撮影秘話が、まちのあちこちに眠っている。 しかし、華やかな時代は長くは続かず。それまで半世紀にわたり娯楽の王様であった映画は、TVの登場により一気にその座を奪われた。映画業界は勢いを失い、観客数の減少は映画館数、映画製作本数の減少へ。1983年「宝塚映画製作所」は事実上閉鎖となり、最盛期には7館あったまちの映画館もすべて閉館。その後、映画館復活を願う市民によって招致活動も起こったが一度消えた映画の灯を蘇らせることは容易ではなく、映画の都としての街並みと記憶は徐々にまちからは消えつつあった。ところが、それから30年が経った頃、「映画のまち」は思わぬ形で蘇ることになる。(つづく)

 

「映画の都」に寄せるもの―歌劇のまちが抱く、もう一つの記憶【後篇】

 

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   目の前にひろがる売布神社の社叢。映画館のロビーにつながる、テラスからの眺めは緑が溢れる。

 

 

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