2017-01-30

一輪の花

花は「生」の象徴なのか「死」の象徴なのか。花に対して、私がずっと抱えている小さなを問いです。

美しく咲く姿は生命力、つまりは生きていることの象徴でもあり、一方で死者に手向けられるという場面では死というものと密接にある。人それぞれ、そしてその時々で正反対の想いが重なるその存在が何なのか考えると、なんだかゆらゆらするのです。

記憶を辿ると、桜のまちで生まれ育った私にとって、花とは毎年当たり前のように空を埋め尽くすほどに咲くもので、一瞬で散っても季節が巡ればまた咲く存在。10歳の春にその生まれ故郷を離れてその環から切り離されて初めて、それが永遠ではないことに気が付いたほどでした。

そして震災後の町へ越してからは、更地や道端に手向けられた花束にまったく違うものを感じるようになり、大人になりがん闘病中にたくさんの花束をもらうようになってからは、花がひらいた一番美しい姿で出会い、その瞬間から死に向かって少しずつ散り、萎れ、例外なく枯れてゆくその姿を毎日見届けるのはどうにもかなしくて、切り花を家に飾ることも花を育てることもどんどん億劫になっていきました。

それでも、花というものにはどうにも惹かれるものがあって、特に自分が弱っている時に道端でふいに出会ったりすると、その姿に力をもらったり。ところがそれを言葉にするのは難しく、カメラを向けてもその花から感じるものの半分も閉じこめられない。特に好きな花は、生まれ故郷の桜の花と蒲公英の白い綿毛で、どちらもとにかく儚くて、永遠の片思いの相手なのです。

そんなこんなで生花とは距離を置いていた頃に出会ったのが、花店noteさんのシャーレ。緑地公園駅近くにある書店 blackbird booksさんの店内で月に1度だけオープンされている花店で、生花やスワッグに交じって並んでいた直径9cmほどの小さなシャーレには、季節の小さな花たちが閉じ込められていました。乾燥後に色の手入れも加えて閉じこめられたその花たちは、枯れてなくなったりはせず、ほぼそのままの色かたちで在ってくれる。そう教わると、これなら大丈夫かもしれないと、掌の中にすっぽりとおさまるその花たちを毎月コツコツと集めるようになりました。

先週末もいつもどおりシャーレを選びに訪れると、見ると買いたくなるから……と、いつもはあまり見ないようにしていた生花の山の端にいたニゲラの花にどうしようもなく惹かれて、初めて生花を購入してしまいました。

レジで手渡したものの、書店&花店オーナーの吉川ご夫妻に包んでいただきながら「枯れていくのがさみしい」「お手入れは…」「さよならのタイミングは…」と独り言のようにぽつぽつ呟く私に丁寧アドバイスをくださって、少し前向きな気持ちで一輪挿しと一緒にお持ち帰り。毎朝ドギマギしながら窓際のニゲラを見つめています。

花は「生」の象徴なのか「死」の象徴なのか。ずっと思いを巡らせているこの問いと向き合うためにも、毎月一輪だけ、散りゆく様を見届ける。そんな暮らしも今の自分には必要な気がして、これからはシャーレと一輪を月に一度の営みとして、花について見つめなおしたいと思います。

hana

michi-siruve (みちしるべ)
“記憶”を綴じるZINE作家。「掌の記憶」を綴じながら、日本のまちを巡っています。>>詳しくはこちら
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