今から14年前、大学4年生のお正月から何となく続けている今年の一文字。
2006年 凛(りん)
(凛から理までの理由はこちら)
2007年 彩(いろどり)
2008年 道(みち)
2009年 生(いきる)
2010年 創(つくる)
2011年 挑(いどむ)
2012年 感(かんじる)
2013年 編(あむ)
2014年 磨(みがく)
2015年 理(ことわり)
2016年 繋(つなぐ)
2017年 響(ひびき)
2018年 深(ふかめる)
2019年 澄(すむ)
2020年 開(ひらく)
2021年 切(せつ)
2022年 時(とき)
2023年 関(かかわる)
2024年は「花(はな)」という一文字にしました。
はな【花/華】
(デジタル大辞泉)
1 種子植物の有性生殖を行う器官。
2 花をもつ植物。また、美の代表としてこれをいう語。
3 桜の花。
4 2のうち、神仏に供えるもの。枝葉だけの場合もある。
5 造花。また、散華 (さんげ) に用いる紙製の蓮の花びら。
6 生け花。また、華道。
7 花が咲くこと。また、その時期。
8 見かけを1にたとえていう語。
9 1の特徴になぞらえていう語。
㋐華やかできらびやかなもの。
㋑中でも特に代表的で華やかなもの。
㋒功名。誉れ。
㋓最もよい時期。また、盛んな事柄や、その時節。
㋔実質を伴わず、体裁ばかりよいこと。また、そのもの。
10 1に関わるもの。
㋐花札 。
㋑心付け。祝儀。
11 世阿弥の能楽論で、演技・演奏が観客の感動を呼び起こす状態。また、その魅力。
12 連歌で、花の定座。また、花の句。
13 和歌・連歌・俳諧で、表現技巧や詞の華麗さ。
14 梅の花。
15 花見。特に、桜の花にいう。
16 誠実さのない、あだな人の心のたとえ。
17 露草の花のしぼり汁。また、藍染めで、淡い藍色。はなだいろ。はないろ。
18 華やかなさかりの若い男女。また、美女。転じて、遊女。
19 「花籤 (はなくじ) 」に同じ。
2024年で絨毛がんになって10年。がんの治療後、michi-siruveとして本格的に「大切な記憶」を綴じるZINE(手製本)の制作活動をはじめて10年です。
この10年度々綴ってきたとおり、「花」という存在は震災後まもない町で暮らしはじめた10歳の春からずっと人生とともにある存在。がん罹患後の日々とその後のmichi-siruveの制作活動を支えてくれたのも、「花」や「はなす」(話す・離す・放す・華す)ということばでした。
花への想いは、7年前に綴った「一輪の花」という文章や、6年前に綴った「本とわたしの記憶」 ― 5. そして、本と花のことという文章で綴ってきました。人生、そして制作を重ねるなかで、花の存在や花との関わりも少しずつ変化しながら、今日まで花たちに助けられてきたように思います。
花について考えると、いつも頭の中がぐるぐるします。どんな花も美しくて、でもどの花も咲いた瞬間から枯れてゆく。私たちよりうんと早足なその「生」に、ついていけないことばかりです。
「一輪の花」
美しく咲く姿は生きていることの象徴のような存在でもあり、死者に手向ける花に人がこめるものは、到底言葉にはできない。人それぞれ、そしてその時々で、時に正反対の色をした想いが重なる。花という存在について考えると、なんだかぐらぐらするのです。
当初は“汀”にちなんで、海の写真が浮かぶはずだったこの詩集。本体の試作中に思いつきで花のかたちになりました。
「本とわたしの記憶」 ― 5. そして、本と花のこと
生きること、死を想うこと、誰かへ贈ることに寄り添う“花”の力を借りて、この詩集にも綴じこむことはできないだろうか?思い立ってできたてほやほやの試作品を手渡し、吉川さんにご相談したのが昨年の夏頃。
手製本の豆本というささやかな小冊子にもかかわらず、シャーレの花の写真を綴じこむことを快くご了承くださり、展示もさせていただけることになりました。気持ちを込めた本の中に、大切な花がある。こんなに大切な本はありません。
michi-siruveの制作してきた手製本や残してきた写真にも、花を想うものがたくさんあります。
「はなす」ということばをあらためてみつめるようになったのは、「記憶のアトリエ」という本づくりの移動アトリエをはじめた頃でしょうか。アトリエにもまた花がそばにあり、はなすことで生まれる記憶の華が咲いていました。
今から5年前に綴った「はなす」#掬することばという文章ではこんなことを書いていました。
ふと思い出したのが「“話す”ことで、“放す”、”離す“、”花す”こともできる」ということば。これは、関西で「記憶のアトリエ」を一緒にひらいている公認心理師のけいこさんが以前おっしゃっていたことです。
話す(放す)ことで、少しだけ自由になれるのかもしれない。話す(離す)ことで、客観的に見つめたり、他の視点からも見つめられるようのかもしれない。話す(花す)ことで、かなしみやくるしみの種から花ひらき、記憶の花として抱くことができるのかもしれない。
わたしはそれを手製本を綴じることで続けていて
「綴じる」ことで種となり
「交わす」ことで育まれ
いつか記憶の花が咲くのかなと。綴じ続けてきた意味もまた感じることができました。声を受けとめて、受けとってくれる人がいるからこそ踏み出せる一歩。その力を改めて感じた2019年の春でした。
「はなす」#掬することば
そんなこんなで「花」とともに歩んできたmichi-siruveが、絨毛がんという病を経験して丸10年。
「10年の節目だから何かをしたい」という訳ではないのですが、特にここ数年は一つひとつのご依頼に応えることに一生懸命で、自分のことを丁寧にみつめる時間があまりとれなかったこともあり、【この10年】ということばの力を借りて少しだけ自分のことを振り返り、この10年歩みを重ねてきた自分を大切にする時間を持ちたいと思います。
具体的には、少し前に【この10年】のそのまえに 『*ko no 10 nen』- petal – & – flower –(仮)
でご紹介したとおり、この10年を振り返り綴るちいさな手製本を制作中です。
この10年の中に散らばっている記憶のひとひら、ひとひら、綴りたいことだけ綴りたい範囲で、一片、欠片のままでちょっと拾い集めておさめたり、まぁ綴りなおしたり。
中にはかなしみやいたみに満ちた記憶や迷いや自信のなさにかき消されそうな想いもありますが、かけがえのない出会いやしあわせな時間と等しく、わたしには大切な記憶。
そんなこの10年のそれぞれのひとひらをpetal(花弁)とflower(花)の力を借りながら綴ったり、それぞれのひとひらからこの10年(というflower)を想いあうような1年が過ごせたらなと。
ふわりとしたささやかな想いですが、2024年の一文字にこめてみなさんにもお贈りします。2024年も、どうぞよろしくお願いいたします。