「死」と「生」#掬することば

今日は4名のがん経験者のみなさんのお話を聴きに滋賀医科大学へ。

色々たくさん考えることがあって。ふと大学時代に受講した藤井美和先生の「死生学」の授業を思い出して、大学のWebサイトで死生学について紹介されている映像を見返していました。

患者家族として、死と真正面から向き合う術を求めて必死だった21歳の自分。がんを宣告された夜、病室のベッドに横たわりながら藤井先生の声を思い出した29歳の自分。そして今の自分。藤井先生の声を聴くと、講義を受けた14年前から今日までのいろんな想いが巡ります。

(映像より)
「『あと少しの命』と言われた時、多くの人は『人は必ず死ぬものだ』という当たり前の事実を、自分のものとして受け止めることになります」

「そしてその時多くの人が、おそらく『残された時間をいかに生きようか』と考えると思います。死生学は死を含めて『生きること』を考える学問です」

「自分が大切に思っているものを獲得した時には喜びが大きいし、自分が大切に思っているものを失った時にはかなしみが大きい。喜びが大きかったり、かなしみが深かったりするところにある出来事が、自分の人生にとって非常に意味があるということ」

立ち返るのはいつも、藤井先生のこの言葉です。

わたしが「大切な記憶」ということばを真ん中に置いているのも、前向きな気持ちばかりでなく、失うかなしみも含めて見つめ続けているのも、やっぱりここがルーツなんだなと。

医療者でも研究者でもないわたしに出来ることは少ないけれど、目を逸らさずにともに考えることだけは続けたいと改めて。

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