「記憶」#掬することば

この春、michi-siruve Webサイトのリニューアルを行いました。大がかりな改修ということもあり、サイトを立ち上げた2013年秋の投稿まで辿りながら……表示崩れの起きている古い記述を一つひとつ整え、8年半のmichi-siruveの歩みを見つめなおす機会に恵まれました。

変わらないもの、変わってきたもの、育まれてきたもの……感じることはたくさんありましたが、ずっと変わらず在るのは「記憶」ということばでした。

そもそも制作活動のまんなかに「記憶」ということばを置いたのは、震災や病による喪失や別れの「そのあと」の日々を生きるなかで、このことばだからこそ抱けるもの、まもれるものがあるのでは?と感じたからでした。

大切な存在を失うことがもたらす、声にすることすらできない深いかなしみや苦しみ。その奥にある、それだけ大切だったという想い。

なかなか表現しづらく交わすことも難しく、時として表現できるようになるまでに長い時間がかかり、でも生きてゆくうえで切実でもあるもの。

それぞれが孤独のなかで抱いているものを、少しだけその輪郭の外側に置いてみて、少しだけ思いやりで包んで、温もりを添えてそっと触れ交わし、ともに見つめ、考え続ける一人でありたい。そんな願いにも近い想いがmichi-siruveの原点でした。

一方で、福祉というまなざしで当事者が自分の想いを声にすることの難しさや危うさを学んできた一人として、またメディアやコンテンツの制作を生業し、表現者と受けとる社会の間で生じるさまざまな危険や難しさを痛感するなかで、表現されたものをどうまもるかということもまた切実な問題でした。

どれだけ時間が経っても、あとからでも安心して表現できるように。時間の経過とともに変化することも肯定できるように。何よりも、表現されたものができる限り理不尽な批評や比較、批判、正しさの槍からできる限りまもられるように。そして搾取や切り取り、消費の対象にもできる限りならないようなかたちにするにはどうしたら良いのだろうか?

その安心もまた「記憶」ということばのもとであれば、少しはまもることができるのではないか?と信じてこのことばをまんなかに置き続けました。

その後の8年半を振り返ると、まもれなかったことや自分の至らなさなど忘れられない後悔が山ほどあり、そういった記憶の方が心に浮かぶところもあります。

それでも「記憶」ということばはまんなかに置いたまま、これからもともに見つめ、考え続けたい。 そんなことを想った9年目の春の夜でした。

き‐おく【記憶】
1 過去に体験したことや覚えたことを、忘れずに心にとめておくこと。また、その内容。
2 心理学で、生物体に過去の影響が残ること。また、過去の経験を保持し、これを再生・再認する機能の総称。
3 コンピューターに必要なデータを蓄えておくこと。

デジタル大辞泉
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