[su_note note_color=”#FFFFFF” text_color=”#444444″]ココロイシ
どうしようもなくふさぎこむと
海辺まで石を拾いに出かける
波打ち際に沈むハートの石は
その土地土地で長い年月をかけて
砕かれたり削られたりを繰り返しながら
自分だけの色やかたちを見いだして
掬い上げると色んなことを語りかけてくる
持ち帰った石を一粒ずつ見つめながら
自分の心の奥に沈む記憶を手繰り寄せるうちに
石の中におさめて本に綴じるようになった
石にココロをおさめる“ココロイシ”
おさめたり 眺めたり 手放したり
波打ち際の石のように
いつまでもかたちを変えながら
(「ココロイシ」より)[/su_note]
ココロイシを拾いはじめたのは、絨毛がんが寛解して1年ほど経った2015年夏頃のこと。その時期からふさぎこむことが増えていて、ふと思い立ってシーグラスを拾おうと鳥羽の海辺へむかったことがはじまりでした。
改めて記憶を辿ると、昔からふさぎこむと海へ向かう癖があって。
それでは足りずに、20歳を過ぎると飛行機でもっと遠くの海へ。普段暮らしている土地に背を向けて、誰もいないような静かな海の境界に立ち、波風を肌で感じ、音に耳を澄ませて遠い先を見つめる。そんな行為で心を落ち着けていたように思います。
話を戻して2015年の夏のこと。がんの
がんになる前のかつての自分のように、
「ハートか。心か。ココロか」表裏とひっくり返し掌の上でその輪郭をなぞると不思議と少し嬉しくな
でも、綺麗な心の粒を集めて標本のように綴じたところで、それは自分の
そんな時に出会ったある人からもらった「本当は、自分なんじゃないかな?」という投げかけがきっかけで、ふと今の自分が一番綴じる必要があるものは何なのだろう?と立ち返る機会をもらいました。
心に空いた穴を埋めるように人の記憶を預かり本を綴じつづけていたけれど。本当は整理の仕方もわからずに心の奥に沈めていた自分の心の記憶がたくさんあって。まずは「闘病」というすべてがひっくり返ってしまった記憶と向き合い直して、一つずつ掬いあげて一度きちんと言葉を編み、石(本)の内側に綴じこめてみようと制作したのが『ココロイシ』という本でした。
さっと手にとりページをめくると、ハートの石の表と裏がひたすらにつづく石の本。実際は全ページが片観音になっていて、“石(ページ)の内側”に言葉を綴じこめることができる仕様になっています。それぞれの石を見つめて、心の奥を見つめて、何か重なるものがあった石の内側にだけ、言葉をおさめる。空白のページもあれば言葉がつづくこともあり、言葉をおさめた後に読み直しても綴じたままでもよし。心の整理がつけば言葉を手放してもよし。自由なかたちで、本の包容力と綴じる過程の力に助けをもらったその本は、前作の標本とは明らかに違っていて。11月の展示では一番多くの方々が熱心に覗きこみ、時に涙を流し、思い思いに心を重ねてくださいました。
そんな一年半ほどの道のりを経て形になった「ココロイシ」ですが、まだまだ道の途中。2017年も石を拾い、ココロをおさめ、のんびりとつづけていきたいと思っています。
最後にZINE『ココロイシ』の最終ページ、一番思い入れのある石に綴じこめた“心を綴じる”という言葉を、ここに添えて結びとさせていただきます。日本一たくさんの種類の石が打ち上げられると言われている新潟県の糸魚川海岸(ひすい海岸)で拾い上げた、不思議な色を秘めた石におさめた言葉。
“心を綴じる”ことについてはまだまだ答えはなくて、きっとこれからも旅をつづけて上書きしながら探しつづけるように思いますが、2016年11月の言葉としてここに記します。
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心を綴じる ということ
“心”というものは本当にわからない
わからないながらも自分の真ん中にあって
すべての源なのだと 漠然と思う
私が本を綴じる軸にしている
“記憶”というものは その心の中にあって
温度や色味を与えているような気がしている
“記憶”というものは記録とは違っていて
正しいものではなかったり変わってしまうこともある
そんな曖昧なものでも 曖昧なまま綴じることで
はじまり 生まれることもあって
それが結果的に 心につながり 心がつながる
そんな可能性もあるようなきがしていて
まだまだどうなるかはわからないけれど
心のために 記憶を綴じつづけたいと思う
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