10歳の春の、10年後。 #掬することば

今日で、東日本大震災が起きてから10年経ちます。今日という日に何か言えることはないのですが、自分の記憶と重ねて思うことをひとつ。

「震災から10年」そのことばで思い出す、東日本大震災より少し前の震災の記憶――人生の半分以上をともにしている阪神・淡路大震災が起きて10年が訪れようとしていた、2005年1月の夜の同級生たちとの記憶について。震災当時10歳で、今年20歳を迎える誰かを想いながら、この文章をここに置きます。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた当時、わたしも同級生も10歳でした。何か大変なことが起こっていることを敏感に感じていながらも、自分の力で何かができるというには少し足りない微妙な年齢。

今のようにインターネットやSNSもなく、子どもたちが日常の枠の外から情報を得る場や、自分の想いを発信して何かをひらいたり、誰かと交わしてゆくような場は今ほど身近ではありませんでした。

震災当日、わたしは東京の花小金井という長閑な町で暮らしていました。祖父母が暮らす町が大変なことになっていることはテレビで知りました。

家のダイヤル式の固定電話から電話をかけ続け、やっと繋がった電話で祖父母の無事を確認することができました。そして家が全壊した祖父母を助けるために、震災後間もない兵庫県へ引っ越しました。

校庭に敷き詰められた仮設校舎で迎えてくれたのは、元気いっぱいの同級生たち。歩くだけでミシミシと揺れるような仮設校舎や猫の額のような校庭を除けば、東京の同級生たちとの日常と何も変わりませんでした。

でも学校を一歩出ると、残った建物の隣に何が在ったのかもわからない瓦礫や更地があったり、手向けられては枯れ、また手向けられる花たちがあったり。 かけがえのないものを失った非日常の上で日常が続いていて、一人ひとりが失ったものにも抱えているものにも、無数のグラデーションがありました。

とにかく失ったものの輪郭を感じ取り、土足で踏み入ることのないように。震災を経験した人たちの家族として、同級生として、その景色を見つめ、声にならない想いに耳を澄ませながら震災から15年間をその町で暮らしました。

学校の行事ごとではことあるごとに、先生たちから「震災から●年」と言われ、1月17日が近づくとテレビや新聞から震災当時の景色や音が溢れ出します。そんな日々の中にあっても、同級生たちとの日常で震災のことが語られることは一度もありませんでした。メディアの中にある「被災地の今」と、「同級生たちとともにしている今」に、いつも乖離する何かを抱えていました。

震災を経験していないにも関わらず、大人たちからは「被災地の子ども」としてひとまとめに声をかけらる状況にも困惑していました。わたし自身も、自分の気持ちを声にする術がわからずに苦しんでいたと、今になって思います。

10歳の時から一緒に過ごした同級生たちが、初めて自分の言葉で当時からの想いを書き綴り出したのは、震災から10年、20歳の成人式を迎えた時でした。その頃はちょうど、インターネットが学生にも身近になってきて、メンバー専用掲示板やmixiというSNSで、友人たちと呟き合う機会が増えていました。当時の携帯電話はまだ二つ折のおもちゃみたいな端末で、インターネットは満足に見ることができず、同級生の言葉に触れるのは帰宅後、家にあるパソコンからでした。

そんな画面越しの交流があったからか、成人式や震災の前後に、震災を経験した同級生たちが一人ふたりとこの10年を書き綴り、それに触発されて他の同級生たちも次々と、この10年を書き綴り、みんなで読み交わすようになりました。

それまでの10年はどれだけ耳を澄ませても聴こえなかった、友人たちの笑顔の奥にあった想い。キャンパスではふざけあっているような友人の、声にならない想いがパソコンの画面の中にはあって、夜な夜な読み交わしていた2005年1月のことが今でも忘れられません。

わたしも、震災を経験していないことや今日まで何もできていないという自分にどか後ろめたさを感じていたこと、みんなとの間に感じていた隔たりのこと、今日までじっと見つめ、耳を澄ませてきたことなどを綴ったような記憶があります。

翌朝キャンパスで会って「昨日の読んだで」「10年前そうやってんな」「今までそんなこと考えててんな」なんて声をかけあった日を境に、“そのあと”をともに生きる友人になれたような。「何もできなかった子ども」だったわたしたちが、自分の言葉で綴り伝えることで、何かできる大人になったことを噛み締めあったような。

当時どこにいた、いなかった。それから何かできた、できなかった。一人ひとりが抱えていたそれぞれの今日までを、少しずつ持ち寄れるようになり、少しずつここで一緒に生きていいんだと思えるようになったような。

それ以降も、何年目の今日の想いを語る同級生もいれば、もちろん言葉にはせず今日を生きる同級生もいます。いつ、何を、それは一人ひとりそれぞれ。当時10歳だったという何にもかえられない一つ事実でつながり、そのあとの日々をともに生きています。

10歳という微妙な年齢だったわたしたちが、想いを表現することのさらにその先、経験を咀嚼して何かを生み出していくには、その倍近くの時間がかかったような感覚があります。

わたしが“大切な記憶”というテーマで記憶を預かり、ZINEや手製本にして贈るという制作をはじめたのも、同級生が舞台作品を創って海外で公演していたのも、震災から20年以上経ってからでした。

言葉にしたり作品を創ったから何か区切りができるものでもなく、そのあとの日々は今日もずっと続いていて、心の中に浮かんでは沈んでゆく感情を掬い上げ、見つめ、時々交わす。そんな日々です。

同級生たちと過ごした日々で感じたことは、言葉にできないような大きな出来事に直面した時、それをやっと自分の声をとおして言葉にできるまでには、それぞれの時間が必要だということです。

時が経ってようやく芽がでるものもあれば、時が経つほどに打ち明けづらくもなるものもある。誰かの何かと比べてしまって声にならなかったり。その時計の針の進め方も人それぞれで、忘れたっていいし、なかったことにしてもいい。でも、いつまで経っても昨日のことのような今のことだったりもする。

そんな日々をともにして、これから先も、もしも友人が何か想いが溢れたとき、うんうんと隣に居る一人でありたいなとそんなことを思います。

2011年、東日本大震災当時10歳だったみなさんが、今年20歳になる。

震災そのものの影響も、コミュニケーションをとりまく環境も異なります。わたしたちが子どもだった頃よりもうんと日常の枠の外から情報を得る場や、自分の言葉を発信する場ががあるような、一方で見知らぬ誰かの視線や言葉に心をえぐられるような危険とも隣り合わせような。

そんな日々を生きるみなさんのことは想像することしかできません。それでも、当時10歳で今年20歳を迎える誰かのことを、あの日から今日まで、そしてこれからも気にかけています。

そしてそんな誰かの、声や表現に耳を澄ませる一人でありたい。そんなことを想う今日です。とりとめもない個人的な記憶と気持ちの断片ですが、2021年3月11日という今日、ここにそっと置きます。

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